都市における集客機能の変遷

欧米における芽生え

そもそも、今日の都市は、産業革命移行、職や教育の場を求めて農村部から人々が集まり形成されていったものと考えることが出来る。都市の新住民は、俸給生活者であり、いわゆる中産階級となった。

もともと、ヨーロッパの都市においては、公共の戸外空間として、「広場」が形成されており、市場の開催地としての「経済的効果」、高札による「情報を発信する場所」、罪人の処刑場としての民衆への「見せしめの効果」、聖職者がそこで市民に文字を教えるなどの「学校としての機能」も果たしていた。しかしながら、そこには、「緑」は無いなど、レクリエーション、もしくはリラクゼーションとしての役割は、不十分であった。
こうした、「レクリエーション」機能を備えた空間は、王侯貴族をはじめとする上流階級の専有物として存在したに過ぎない。
しかしながら、都市に中産階級の住民が増加し、権利も増大することによって、17~19世紀には、イギリスやフランス、ヨーロッパ北部において、貴族の庭園技術を元に、森や花壇、小径の散策、スポーツや飲食店等を備えた「プレジャーガーデン」が形成される。その中でも最大規模を誇ったのは、1728年に出来た「ヴォクスホル・ガーデン」であり、ボウリングやテニスに代表されるスポーツや音楽のコンサート、社交ダンス、見世物、原始的な遊戯装置など様々な娯楽を集めた遊技場であった。しかしながら、売春、犯罪、ギャンブルなどが横行し廃れ、1840年には閉鎖されている。
このプレジャーガーデンの直系が、1843年に開設された、デンマークのチボリ公園といえる。
また、1873年には、「ウィーン万国博覧会」を機にウィーンのプラーターが、大型遊戯機械をもつ形態へと変化する。この流れが1883年に米国に渡り「コニーアイランド」として開花する。コニーアイランドは今日の遊園地の原型と呼べるものであり、ジェットコースター、観覧車など様々な遊戯施設、月面旅行をテーマとしたルナパーク(1903-1946)などがあった。
「観光・交流」ということを、住民、来訪者を区別することなくとらえれば、欧米においては人々が集う場である「広場」。レクリエーションの場としての「公園」「遊園地」といったものが、その機能を提供してきたと言える。

わが国における芽生え

我が国の都市空間には、もともと、「広場」という概念が欠如していたが、同じような役割を果たしていた「場」を考察すれば、縁日が行われる寺社地の「境内」、また、遊興の場であり文化の発信場所でもあった「遊郭」を挙げることが出来る。
江戸末期から明治にかけて、ヨーロッパの王侯貴族の庭園と同様に、武家、寺社地の庭園技術が一般に普及し、1853年には「花屋敷」が開業される。当初の花屋敷はもともとに四季折々の草花を見せて喜ばせる庭園であった。この他にも、有料で大人を対象とした物ではあったが、「庭園」を見せる施設が開設され、我が国の公園の起源となる。

明治に入り、勧業目的の博覧会が各地で開催されると、多くの人々が集まったが、その場では、最新技術の表現としてコースター、観覧車などの遊具が設置されるようになる。1907年には、上野の博覧会で設置された観覧車が、浅草六区に移設・常設されることで、恒常的なものとなっていく。この時代は、ちょうど、工場労働者、すなわち新中産階級が増大した頃でもあり、活動写真館や浅草オペラ座も開設され、その後、都市は急速に中産階級向けの「レクリエーション」機能を備えて行くことになる。
実際、米国のルナパークのわずか7年後の1910年には、浅草に「物語性」をもった「ルナパーク」が誕生し、大阪にも1911年に通天閣ルナパーク、1914年には楽天地が誕生する。

浅草に代表されるように、我が国における都市のレクリエーション機能は、遊郭をはじめとする歓楽街と深い関係を持っていたが、大正にはいると、家族を対象に、健全なまちづくりの道具としてレクリエーション機能を利用する試みも行われるようになる。
1910年に始まった宝塚新温泉、1922年にはじまった甲子園の開発は、まさにそうした開発であった。前者は「温泉と少女歌劇」、後者は「スポーツと健康」をテーマとして掲げ、大規模、かつ、持続的な開発が行われた。

この他、低湿地帯でイメージが悪かった、大阪・市岡において、1925年に市岡パラダイスを開業し街作りの起爆剤としたのをはじめ、玉川電気軌道の玉川遊園地(1909)、青梅電鉄の青梅楽々園(1921)、王子電気軌道の荒川遊園(1922)、京成電気軌道の市川東華園(1922)、東武鉄道の兎月園(1924)、京成電気軌道の谷津遊園(1925)、田園都市株式会社の多摩川園(1925)、京王電気鉄道の多摩川原遊園(1927)、小田原急行鉄道の向ヶ丘遊園(1927)、東京横浜電鉄の網島温泉浴場(1927)と毎年のように、私鉄による「レクリエーション空間」の開発がなされた。

私鉄が、こうした開発を行った事は、都市部に人口が流入し、郊外開発が進む中で、住民を惹き付ける起爆剤として「レクリエーション空間」の存在を重視していた事の現れといえよう。
今日でも、こうした手法は行われており、横浜ベイサイドマリーナやお台場の開発など、特にウォーターフロント開発に顕著に見られる。TDLでさえも、開業時には、将来的な住宅地への転用が意識されていたものであった。

戦後の動き

戦後の混乱期

戦後になると、一時、こうした遊園地を中心とした「レクリエーション空間」の開発は沈静化するが、1955年に「後楽園ゆうえんち」と、「船橋ヘルスセンター」が開業することで新たな展開を見せる。
前者は、面積の限定された既存都市内部において高度に立体化、機械化されたレクリエーション空間を創造したものである。戦前の開発では、当初は、郊外であった物が、市街地の拡大、もしくは、新たに市街地を形成し都市域へ吸収されるといった物であったが、後楽園は既存の都市内部での開発であり、都市の遊園地として立体化、機械化に特化した事が特徴的である。
後者は、古来よりの温泉浴の趣向を都市部において実現した物であり、1964年のナガシマスパーランド、1966年の常磐ハワイアンセンターへとつながる。
また、1950年代は映画の黄金期でもあり、1951年に初のカラー映画、1953年には大型スクリーンのシネマスコープが封切られ、入場者数は1958年には史上最高の1.1億人を数えた。また、1952年に東京青山に芸能人御用達として東京ボウリングセンターが登場している。
一方、多くの街の歓楽街の中心であった遊郭は1924年には全国544ヵ所を数えたが、1946年の公娼廃止指令によって表面上は消滅する。その後、いわゆる赤線地帯として存続したものの、1958年の売春防止法施行で完全に一掃された。これによって、繁華街は、マージャンやキャバレー、バーといった施設が中心となっていく。

1960年代

1960年代にはいると、1961年に、「富士急ハイランド」「奈良ドリームランド」「多摩テック」の3施設が開設される。富士急ハイランドは、河口湖周辺のリゾート開発の起爆剤という戦前にもみられた手法であり、その後、1967年に合歓の郷、1969年に那須ロイヤルセンター、那須ハイランドパークといった開発につながる。奈良ドリームランドは「テーマパーク」のはしりとして、また、多摩テックは(自動車という)特定の要素に集中して個性化したものとして注目され、1962年の鈴鹿サーキットランドとつながっていく。
この他にも、1960年代には様々な遊園地が開設されている。
1964年 よみうりランド(東京都稲城市)
横浜ドリームランド(横浜市)
1966年 三井グリーンランド(熊本県荒尾市)
1967年 東京サマーランド(東京都秋川市)
城島後楽園ゆうえんち(大分県別府市)
また、1963年には品川に120レーンという当時世界最大規模のボーリング場が開設され、ボーリングが普及を始めていく。
また、この時代は、東京を中心とする都市圏の社会増がピークを迎えている頃であり、上京した人々にとって、都会の消費生活の象徴であったのが「百貨店」であった。上京した若者が、都市の百貨店にて買い物、飲食を楽しみ、映画、ボーリングを行うというのが典型的な都市の楽しみ方であった。
受け皿となる都市は、こうした機能を持った個別施設の集合体であり、繁華街や、歓楽街を形成していた。

1970年代

1970年代にはいると、大阪万博(1970)が開催され、丹下健三氏が基幹施設のプロデューサーをつとめ、「お祭り広場」が建設された。都市には祝祭広場が必要との思考が根底にあったと言われる。我が国の都市に「広場」という概念が持ち込まれるようになった契機と言える。大阪万博の跡地は、1972年にエキスポランドとして整備され、提供されている。また、都市域では無いが、1975年には、沖縄海洋博が開催され、その跡地が沖縄エキスポランドとして整備されている。このような、博覧会を町興し、地域興し道具として用い、その跡地を遊園地などとするという仕組みはしばらく続く。

都市内の歓楽街では、1971年にボーリング人気が沸騰し、ボーリング人口が一千万人を数え、TV番組が週6,7本という状況となり、1972年には全国でボーリング場は3,700カ所、12万レーンに達する。しかしながら、1973年のオイルショックにより急速に衰退する。
かわって、1978年に、タイトーから「スペースインベーダーゲーム」が発表され、都市の繁華街にはゲームセンターが溢れるようになる。また、このころから、スナックなどを中心にカラオケが普及を始め、キャバレーは衰退していく。

都市の消費生活の象徴であり、都市の中心でもあった「百貨店」は、オイルショックにより、1974年に売上高をスーパーに抜かれ、流通のトップの座ではなくなってしまう。こうした状況の中、1973年には、西武が当時の渋谷区役所通りにファッション専門店ビル、パルコ・パート1を開店。「すれちがう人が美しい、渋谷 公園通り」というキャッチフレーズで渋谷をファッションの街として鮮明にイメージづける。1979年には、東急がファッション・コミュニティ109を道玄坂の入口に開店し、渋谷という街と、「ファッション」というイメージをつなぎ合わせるようになる。

また、1970年代は「ファミリーレストラン」「ファーストフード」「居酒屋チェーン」が誕生した時期でもある。1970年の7月にすかいらーくが国立に1号店を出し、同じ都市の大阪万博では、ロイヤルがハワードジョンソンと業務提携したステーキハウスとカフェテリア、それにKFCを運営している。翌年には、マクドナルドが銀座4丁目にオープンている。また、1969年に天狗第1号店(池袋西口)、1973年には、村さ来第1号店、つぼ八第1号店(札幌)が開業し、村さ来は1976年に、つぼ八は1978年にフランチャイズによるチェーン展開を始めている。(天狗のフランチャイズ展開は1984年)

1980年代

1980年代になると、新風俗法施行による規制もあり、ゲームセンターの「不良のたまり場」といったネガティブなイメージが薄れ、カラオケもカラオケボックスとして一般に広く普及するようになる。

また、オイルショックまでの高度成長期における「物志向」の反動から、健康志向が高まりジョギング、マラソン、テニス、ジャズダンス、エアロビクス、アスレチッククラブなどがはやるようになる。また、女性誌が続々創刊され、カルチャーセンター、美術展、音楽会、演劇を楽しむ女性が増えてくる。この頃から、かつては、男、それも年輩の男を中心とした空間であった「歓楽街」が、若者を含む男女の街となっていく。

そして1983年の「東京ディズニーランド(TDL)」の開業である。このTDLが与えた影響は非常に大きな物であり、その後の遊園地開発のリファレンスとなり、各地に「テーマパーク」が開業されるようになる。同じ1983年には六本木にテーマレストランの原型と呼べる「ハードロック・カフェ」が開業している。

また、遊園地は対象を「家族」から「若者・カップル」へと移していく。いわゆる絶叫系のライドを集中的にそろえた1982年開業の神戸ポートピアランド(ポートピア'81の跡地利用)はその走りといえるが、1980年代後半に開業した舞浜のディズニーランドオフィシャルホテルはカップルによって埋め尽くされるようになる。また、1987年施行のリゾート法によって、日本各地に郷土パークから遊園地型のパークまで、さまざまな「テーマ」性をもったパークが急激に作られた。

ファミリーレストラン、ファーストフード、フランチャイズ系居酒屋は、様々な亜流を生み出しつつ、広く普及するようになり、チェーン展開されたスーパーとあわせて、飲食、物販といった消費行動の一般化、大衆化が進む。

1990年代

1990年代にはいると、ナムコが「ナムコ・ワンダーエッグ」を1992年に開園。これによって、従来の視聴型、ライド型からインタラクティブ型へと拡大され、1996年のナンジャタウンの開園で参加型・インタラクティブ型は一定の完成を見る。また、1995年に登場したプリクラによって、ゲームセンターには女子校正が溢れるようになる。郊外には「家族連れ」を対象とした居酒屋が数多く開設されるようになるなど、更に、市場はボーダレスとなり、老若男女の境が無くなっていく。

1990年代以降の状況を施設提供者側から捉えると「複合化」と「選択&集中」の2戦略が明確にとられている。前者は、巨額の資本投下によって複数の施設(機能)を融合しフルライン化させるものであり、後者は、ローコストであるが一芸的な魅力を磨いたものである。

複合化路線の発端は、1992年の大店法の規制緩和を発端に、1993年にワーナー・マイカルによって飲食や駐車場、商業機能を併設したシネコンが挙げられる。従来、「テーマパーク」をはじめとするレクリエーション施設は、日常空間とは独立し異質な傾向が強かったが、神戸ハーバーランド(1992年)、恵比寿ガーデンプレイス(1994年)、大阪アメニティパーク(1995年)、キャナルシティ博多(1996年)、タカシマヤタイムズスクエアの新宿ジョイポリス(1996年開業、2000年閉鎖)、大阪フェスティバルゲート(1997年)、HEP FIVE(1999年)など、都市空間、特に商業空間と密接に関連したした施設が多く出てくるようになった。これは従来の「繁華街」と「歓楽街」との融合ともいえる。

選択&集中路線では、1994年開業の、テーマレストランをテーマパークと融合したような新横浜ラーメン博物館や、1995年開業の、ペットショップがペットのテーマパークとなったねこたま(いぬたま:1997年)が挙げられる。両者とも機能としては単機能であるが、テーマ性を持たせることで施設機能に深みを持たせている。また、GAPやL.L.Beanといった米国の専門店がわが国においても人気があるのも、その個性がはっきりしているところにある。

今後の展望

複合型、フルライン型は、「時間消費型ビジネス」とも言われていたが、マイカルの倒産(民事再生法→会社更生法)に見られるように、投資と収益のバランスが取れないケースが多い。
一方で、選択&集中型は、投資は少なくて済むが絞込みが適切でなかったり、集中が十分でなければ魅力を持つことは難しい。もともとローコストであるため、収益が悪化すると一気に陳腐化、荒廃してしまう傾向にある。

どちらにしても、重要なことは「市場」あっての「施設」であるという事である。そして市場は有限なものであり、ゼロサムゲームとなっているということである。
従来は、市場が規模(人の数、消費額双方において)拡大をしてきていた。そのピークはあのバブル期であったと言ってよい。しかし、いまや、人口の頭打ちが顕在化し、総人口の減少も目前に迫っている。長引く不況、デフレによって消費額も減少している。これがゼロサムゲームを目に見えるものとしてしまっている。

複合、フルライン化はかつて、百貨店が屋上遊園地を持ち、美術館を持ち、劇場まで持っていた歴史を形態を変えてなぞっている道でもある。「歴史は繰り返す」これは真理であるが、状況は変化し、まったく同じ歴史とはならない。歴史を踏まえながら、新たな枠組みを模索していくことが求められよう。

参考資料:「日本の遊園地」講談社現代新書(橋爪紳也)